昭和44年06月16日 朝の御理解
御理解 第7節
「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
「神様からおかげ摂取する」だけの信心ではいけない。素晴らしい言葉をもってこういうふうに天地を説いておられます。私は本当に素晴らしいと思います「天地金乃神は昔からある神様ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやる事なし。はやる事なければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。」本当に素晴らしい表現だと思いますね。けれども私は今日改めて分からせて貰い思わせて頂いた事は。
そのなんでもないと思う様な所、いわば付け加えてあると言った様な所、一番最後の「信心はせんでもおかげはやってある」という所。どうもこのへんのお言葉と最後の所が、ちぐはぐというか、かけ離れた様な感じがせんでもないですけれども。やっぱりこういう素晴らしい言葉をもって、天地を説いておられるわけですけれども、まあ私共の拝ませて頂いておる神様を、この様に言い現しておられるのですけれども。
なるほど一番肝心な事は「天地日月の心になること肝要なり」と言うてくださるんですけれども、「信心はせんでも、おかげはやってある」という事を、一つまず分からなければいけないと思うですね。「信心はせんでもおかげはやってある」。そこでほんなら信心をさせて頂いておるという事は、勿論お願いをするお取次を頂いて、様々な難儀な事からおかげを頂いてまいりましてね。
又おかげを頂いておりますのですけれども、所謂とりわけ特別信者氏子としての、おかげを下さります。ですけども信心はせんでもおかげは頂いておる、頂いておったという事。そこん所をですね、私はまず、分からなければならん。ただ信心をしておかげを頂くという事は、今考えますと、ただ摂取しておったとね。親におねだりだけをしておると言う様な事になるんですよね。
信心しておかげを受けるという事は、神様どうぞお願い致しますという事は。なるほどそのために大変な事を教えてもらいます。ね。例えばここから頂きましても信心という事がです、どういう事か、と。おかげを頂くためには「天地日月の心になること肝要なり」という、天地日月の心になる事を、先ず様々な角度から説かれます。ですから私共はそうなっていきます。そうなっていってもやはりそれは特別の、なるほどそのおかげを頂くため以外なものはないです。
いわゆる神様からおかげが頂きようなる。特別なおかげが頂ける。願わんでも頼まんでもおかげが受けられる。やはり神様から摂取するだけでしょうが、ね。ここの肝心要のところは「天地日月の心になること肝要なり」と、ね。いわゆる天のお恵みに対して、大地の御徳に対して、又は天地日月の心とおっしゃるその日月の心。いよいよ私どもが実意丁寧神信心にならせて頂く。
そういう事によってですやはりおかげを受ける。是はもうそこに絶対なおかげが、そこに頂けるわけですけれども、ね。「信心はせんでもおかげをやってある」というおかげ。信心はせんでもおかげはやってあるという、おかげに対してです。先ず私共が分からせてもらわなければならない。そこから私は神恩報謝の心、ね。そこが分かってお礼を申し上げてそのお礼に対する奉仕が、又はそこが分かっての生き方が出来る。
その生き方が実意丁寧であり、天地所謂天地の心を心としてという事になるのです。「信心はせぬでも、おかげはやってある」という事、ね。是はあまりにも広大無辺であり、ね。実際中々実感としては分からない所。理屈を聞けばそうですけれども。私共が信心はせんでもおかげを頂いておるという事は、いうならここには神様が無条件「実意丁寧になれ」とも仰らなければ「天地日月の心になる事肝要だ」とも仰らずに。
いわゆる黙っておかげを下さるという、大愛とでも申しましょうかねえ。親が子供を育てるのに無条件で育てる様に、天地の親神様は信心があってもなくても、黙っておかげを下さってあるということです、ね。「親の恩は海より深く山よりも高い」と申しますが、ね。確かにそれはどういう意味かというと、無条件の愛ということだと思うです、親が子に対する。ね。この子を育てておいて。
そしてこの子から年をとったら見て貰わんならんから、孝行してもらわんならんから、可愛がるという事じゃないでしょう。先はどげんなるじゃら分からんけれども、やはり可愛がらねばおられんのが親の情であります。私は天地の恩と言うか、その信心はせんでもおかげはやってあると。いうならば親孝行はせんでも、神様はおかげはやってある。親孝行はできなくても、ね。親はその子の上に愛情をかけるというようなもの。
それのもうどれだけ何倍、何千倍、何万倍とも分からんほどの働きというものを、私共の上に下さってある。その事を「信心はせぬでもおかげはやってある」というのであります。ね。そこで信心はせぬでもおかげはやってあるという所が、ほんなら分かって来たら、どういう事にならなければならないかと。いうならばですね、親孝行な子供が親に対して無条件で孝行する様なものでなからなければならない事です。ね。
親から財産を貰わんならんから、親に対してうんと親が喜ぶように孝行しよる。是は私は本当の親孝行じゃないと思うです。親も無条件なら子供もまた無条件。ね。無条件に下さってある「信心はせぬでもおかげはやってある」と仰る。そういうおかげ「お参りしたばってんおかげ頂かじゃった。」「そうなお願いもしたけれども、そうにゃ参ったけれども、自分の思うごつならじゃった。」と言った様な事やらは、もう本当にさらさら言えない事になって来ますね、ここが分かると。
私は本当に信心のその基本になるところというか、一番大事な所を今まで、私共この御理解七節から、ただそのおかげを受けんならんもんですから、「天地日月の心になる事肝要なり。」所ばっかり頂いとって、素晴らしい事なんですその事は、ね。最近私が言っておる「黙って受けて、黙って与えていこう。」なんて言う生き方は、もう人間が愈々幸せになれる。是は一つのそうならなきゃ幸せにはなれないです。ね。
けれどもそれは幸せにならせて頂くため、おかげを頂くためでしょうが。まあ言い換えますと、おかげ頂かんならんから、天地日月の心にならせて頂こうと精進するだけでしょうが。精進しておっておかげが自分の様に、ほんならおかげが頂けんと、神様に不平不足を言う。そらその不平不足を言うておるという事は、もう神様に言うてる事と同じ事なんですよね。ですからそれよりももっともっと大事な事は「信心はせんでもおかげはやってある。」というおかげに目覚める事です。ね。
それを信心するようになって初めて分かった。分かるんです。今までおかげを受けてきた、そのおかげに対してです不平不足の、いわば連続であった。ね。そういう事が分かってくる。天地の働きがです。信心をせぬ私どもにでもこの様なおかげ。それは親が子を思う情の様なもの。いわゆる無条件で子供を可愛がるように、天地も私共に信心があろうがなかろうが、無条件におかげを満遍なく下さってあった。
にも拘らず私共はその事を知らずに、不平不足ばかりを神様の前に並べて来た、ね。いよいよ苦しくなった。「そら信心でもして、いっちょおかげ頂こう」と、「神様、仏様」と言うてまあ信心をみんながする様になる。そして「どうぞ、こうありますように、ああありますように。」というて願う。ですからまあそれでも神様はおかげを下さってあるのですけれども、段々分からなければならない事はです、今まで頂いておったおかげ信心。今まで是からとても同じ事ですけれども、「信心はせんでも、おかげはやってある。」と仰せられる、そのおかげに目覚めるとです。
「どうぞああして下さい、これを下さい。」という前に、神様広大なおかげに対して、今まで知らなかった事に対してお詫びをさして貰い、またお礼を申させて貰い。勿論過去だけの事じゃない。今月今日でそこん所のお礼が、お詫びがなされていく。これは自分の思う様になるとか、ならないとかという事じゃないのである。ね。そこん所に、お互いの信心がこの一線上に出てくるというかね。
それを基点としてそこからよりおかげを頂かせて頂くことのために、より自分自身の心が救われるために、助かるために天地日月の心になることに精進するでなからなければならんことが分かります。ね。「神恩報謝の生活」と言った様な事を申しますが、ね。神恩報謝の生活というのは、「信心はせんでもおかげはやってある」というおかげに目覚めなければ、神恩報謝の生活は出来んと思うです。ね。
「お願いしたら、こげな広大なおかげを頂いた」「天地日月の心にならせて頂く事に精進したら、こういう素晴らしいおかげを頂いた」と。それに対して例えば神恩報謝の生活がどれだけできておっても、その事に対してお礼の信心がどれだけできておっても、頂いたおかげに対してですよ。これはまだまだ足りない。そらまあいうならば当たり前の事。けども、「信心はせんでもおかげはやってある」おかげに気付かせてもらって、そのことに対する神恩報謝。
とりわけ又信心させて貰って、この様な素晴らしい事を教えて貰って、その教えに従うて行く様にならせて頂いたら、この様な言うなら、商売人であるなら商売繁盛のおかげ、病人であるなら病気全快のおかげと言った様なおかげを頂くのですから、ね。「信心はせんでもおかげはやってある」というおかげと、そういうおかげとをひっくるめてのものでなからなければいけない、神恩報謝というのは。
ただ「お願いしておりましたら、こんなおかげ頂きました。有り難うございます。神様のご恩は一生忘れません」というのだけじゃ駄目だということ。それはもう当たり前の事。そこん所で例えば親が子供に対して無条件で、子供に対する奉仕を致します様に、私共も、矢張り無条件で親に孝行しなければならないという事。私はここん所が出来合うて参りますとですね。私は本当に素晴らしいことになってくると思うですね。
無条件でいわば親に奉仕をする。親もまた無条件で子供に奉仕をする。俺の言う事聞くけん大事にしてやる。そういうもんじゃない。子供の時に親が様々に面倒見てくれたから、面倒見てやるんだ、と。是ではね私は本当の事じゃない。お互いがそこん所を無条件でです、奉仕をし合う大事にし合う。そこの信心を一つ頂きたい。これは親子の上においても然り、天地との係わり合いにおいても然り。
そこでです今申します、「信心はせんでもおかげはやってやる。」とこう仰せられますがです。ね。話を聞けば成程だと分かるんですね。成程信心信心はせんでも、おかげを頂いて、いやおかげの中に生かされて生きておるし、神様のおかげ無しには生きられないことも分かってくるです。それは様々な説明を、様々に説いておりますね沢山の人が。是は宗教家だけではありません。
ところがその、「信心はせんでもおかげはやってやる。」というおかげが分からなければならん。しかも実感として分からなければならないという所に信心がある、と。もうそれこそ、「天地ははやることなしと仰る。はやる事なければ終わりもなし。」というもう実に淡々としたもの。ですから私共がそういう、おかげを淡々として分からして貰って、ね。淡々としてその事に対する不平不足所ではない、天地自然の働きの中に有り難い、勿体ないの生活させて貰わなきゃならん。
その上にいよいよ教えに基づいてです、ね。天地の道理に基づいて、天地日月の心にならせて頂く所の稽古というか、精進をさして貰う所にです、それこそ夢にも思わなかった様なおかげが展開してくる。そのおかげに対して感謝せよではなくてその大元、元つもの元つ神とこういうですかね。元つ神の働きその根源です。信心をせんでもいわば親が子に無条件の愛を注ぐ様に、無条件で私共に下さってある、そのおかげに対して気付かせてもらい、そのおかげに神恩報謝の真心、真が捧げられる。ね。
そこには不平不足のない私は。いや不平不足を言うては相すまん、勿体ないという、勿体ないの生活。いわゆる日月の心になる信心が、そこから生まれて来るのでなからにゃいけません。そこでそのおかげのあまりにも広大無辺でありますから、なかなかいわゆる信心はせんでも頂いておるおかげでありますから、普通たいがいの者がそれを当然の事と思う。当たり前と、ね。
だからそこの所が当たり前になったら、いわば信心は本当の信心は成り立たない。当たり前の事の中に私は不思議を感じさせて貰う。そしてそこにお礼を申し上げていく。ためにですほんならどう言う様な信心させて頂いたら、ここん所のおかげが分かるだろうかとい事なんですね。昨日午後から久富先生ところのお母さん、本当のお母さん。そすと奥さんのお父さんの、丁度式年に当たっとりましたから、式年祭霊祭がここで御座いました。久富先生とこの子供が、八人か九人かおりますね。
昨日は、日曜でもありましたから、全部集まりまして、本当にそれぞれがもう、子供達孫達がそれぞれに、その真心を結集して、ここでお祭りが御座いました。その事を私神様にお礼を申させて頂いて、御霊様のお祭りに、移ろうと致しました時に頂いた事がね。「嘘から出た真。」という事を頂いた。嘘から出た真と申しますね。嘘から出た真という様な事を申します。
段々お祭りが進んで参りましてから、霊神様のお祭りが終わり銘々が玉串を奉られる。それに私が是は感じたんですけれども、本当にその子供孫達がですね、今日は本当にお祭りをして貰うて良かったと、何か非常にこう感動的なものを銘々が感じたように、私感じられました。それで先ほど頂いた、ほんなら、「嘘から出た真」という事はですね、初めの間は親父がやかましゅう言うけんで。
まあ金の五千円ずつもほんならこうやって出し合うて、二千円出すやつもおるというごたる風で、子供達が出し合ってまあしたわけです。だからお前が三千円だしゃ、俺は千円しか出さんと言う様なやつ子も、やっぱりあったに違いないです。けれどもそのそれぞれがです、こうやってやらせて頂いて、お祭りをいよいよ頂く事になったら、「お祭りをさせて頂いて良かった。」というものになってきた感じです。
だから始めの間は嘘だったというわけ。そげん婆さんやら爺さんやらが、喜ばっしゃるやら喜ばっしゃらんやらが分かるもんか、と言う様なものであったかもしれません。ばってん親父があげん言うけん、せじゃこてち言うごたるふうじゃったかも知れんけれど、実際お祭りを頂いてみた所がです、成程有り難かったわけなんですね。ですからそこに嘘から真が出て来た訳ですよね。
信心とはねそういう、初めから真のあるものはないのだ。誰でも「おかげ、おかげ」と言うて、おかげを頂く事ばっかりしか思わんのです誰だって。そしておかげが頂かんと、「神様も、ござるやら、ござらんやら分かるもんか。」というのが是は、久富先生所の子供達がみんな考え方じゃろうとこう思うです。これはもう一般にそうなんです、ね。所が実際に例えば本当の真実性というのはなかっても、そうやってさせて頂く所から、生まれてきたのが真である。
いわば御霊様とその孫達が通うたという感じ。御霊様の喜びが子供達の上にも感動として現れた。だから信心とはそういうですね、そういう心を育てていくという事が、信心であり信心とは真心ですね。いわゆる真です。真心だとこうご理解頂きました。はあ確かにそうだなと私は思うた。ね。嘘から出た真。ね。ですからそんほんなら、そういう例えば御霊様のお祭りをさせて頂いて、確かに真が出たがれをです。
ところが放任しておくとまた直ぐに、元の木阿弥になるのです。だからその心をです、「信心ちゃ、こんなにも有り難いものだ。」というか初めて自分の心の中から、こういう感動的な喜びが湧いてきたと。その喜びをですね育てていくという所に信心があるのですよ。信心とはそれなんです。天地の働きは、真の権化だとこういうふうに申します。天地こそが実意である真である。そこで私共は真にならなければならない。
ところが私共には悲しいかなその真がない。ね。けれども信心をしてみる所からです。ね。いわば嘘から出た所からではあってもです、ね。はあ是が真かと自分でも分からせて貰う事が出来る。ね。しかもその真を限りなく育てて行くと言う事は、限りがないのである。真は是でよいと言う事じゃない。「尽くしても、また尽くしても尽くしても、尽くしたらぬが真なりける。」とこうね。「これですんだとは思いません。」と。もう限りなくここん所の追求こそが、信心だという事が分かりますね。
そこで私は思うんです。真。今日からいよいよ夏の修行が、所謂展開される訳ですね。昼の一時を期して、夏の修行に取り組むわけです。ですからね私は初めから、いうならば、わりわりするごたる元気な心が生まれてくるとは思われません。「さあ、夏の修行じゃから頑張るぞ。」と言うてから、それをその待ち構えておるという人達は少ないだろう。けれども段々その修行に参加させて頂いておるうちにです「お参りしてよかった。参加してよかった」と言う様なものが生まれてくるというのですから。
ですから今日例えば、今の言葉を借りて言うならばです。ね。元気はない。ね。しら元気。本当の元気じゃないけれども、しら元気のような元気だけれども、その元気なしら元気ででも、その修行に参加させて頂きよったら本当の元気になって来た、と言う様なふうにも言えるとでしょうが。そうでしょうが。、ね。段々修行続けさせて頂きよる内にです。本当に心から湧いてくる元気な心が湧いて来る。ね。
「信心はせんでもおかげはやってある。」とおっしゃる。始めの間はです、ね。ひと掬いの水でも一粒のお米でもです。ね。、例えばそのそれを心から有り難いという感謝の心が起こらんでもです。ね。嘘にでも良いからそのひと掬いの水を「有り難い、もったいない」と言うて頂きよる。お食事の時でも本当に「有り難い、もったいない」と言うて頂きよるとです、いつの間にかそれがね。嘘から真になって来て、本当に有り難くなって来る。始めは嘘の涙でも本当の涙がこぼれて来る様に成る様なもんだ。
私はここに、「信心はせんでもおかげはやってある。」と言う様なおかげは、そのように漠然としたものであるから。やはりその事に取り組んで、それを有り難くはなくても、有り難いふうをしてでもです。それを実行していきよるうちに、そこん所が分かって来る様に思うんです。ね。今日から始まる夏期修行なんかでもそうです。それこそ生き生きとした、わり割する様な元気な心と言った様なものがなくてもね。嘘にでもよいから、いわば元気な心の様な、いわば信心をさせて頂く所からです。
もう本当に心から湧いてくる元気な心が与えられるとこう思うのです、ね。どうぞ今日今朝から、今日の昼からあります夏期修行は、そういう意味合いでですね。私は今まで知らなかったというか、「信心はせんでもおかげはやってある」と仰る様な、そのおかげを分からせて頂くための修行ということになったら、例えばその暑さもものともせぬ、暑さに向かって打ち向こうて行くその元気な心がです、始めの間は嘘であったけれどもです。本当のものになってきた。様々な難儀な問題に取り組む。
始めの間は矢張り、そう元気な心ばかりじゃなかったけれども、取り組んでいきよるうちにです、その難儀な問題が難儀な問題じゃなくなってくるほどの、有り難いものに変わってくる。そういうおかげを頂いていく意味合いにおいての修行に、もうこよない修行であると思うのです。どうぞそういう意味合いで一つ、五十日間の夏期修行をね、成就させて頂きたいというふうに願わせて頂いておるので御座います。
どうぞ。